意見書案第6号 賛成討論
意見書案第6号「沖縄戦の戦没者の遺骨等を含む可能性のある土砂を埋め立てに使用しないよう求める意見書」への賛成討論
2021年3月22日 日本共産党 古堅茂治
ハイサイ グスーヨー チューウガナビラ。日本共産党・オール沖縄の古堅茂治です。ただいま議題となりました、意見書案第6号「沖縄戦の戦没者の遺骨等を含む可能性のある土砂を埋め立てに使用しないよう求める意見書」について、日本共産党市議団を代表して賛成討論を行います。
最初に、意見書文案調整と全会一致に向けて、沖縄の心で力を尽された議運正副委員長と議員のみなさんに敬意を表します。
さて、政府が沖縄県に提出した辺野古米軍基地建設の設計変更申請書は、これまでの沖縄本島北部だけでなく、沖縄県全域から埋め立て土砂を採取する計画を明記しています。そのうちの7割を占めるのが、沖縄戦の凄惨な激戦地となった糸満市と八重瀬町です。
明日、3月23日は、米軍が沖縄攻略作戦を開始した日で、4月1日の沖縄本島上陸前の1週間で約4万発の砲弾を撃ち込み、1600機の艦載機で爆撃・機銃で攻撃したといわれています。
90日にも及んだ沖縄戦は、多くの住民を巻き込んだ日本唯一の地上戦となり、「戦略持久戦」「本土防衛の捨て石作戦」を指揮した日本軍第32軍司令部が5月22日に首里の壕から南部への撤退を決定したのに伴い、南部地域に日本軍も住民も追いつめられ、逃げ場を失い、混雑した状況下で戦死者が増え続けました。
米軍は、陸、海、空から、県民一人当たり約50発の大小のおびただしい砲弾を無差別に打ち込み、組織的戦闘が終わったとされる6月23日までの1ヵ月間の犠牲者は沖縄戦での全戦没者の半分以上ともなる悲惨極まる激戦地となっています。
「平和の礎」に隣接する「沖縄県平和祈念資料館」の設立理念には、「1945年3月末、史上まれにみる激烈な戦火がこの島々に襲ってきました。90日におよぶ鉄の暴風は、島々の山容を変え、文化遺産のほとんどを破壊し、20数万の尊い人命を奪い去りました。沖縄戦は日本に於ける唯一の県民を総動員した地上戦であり、アジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘でありました。
沖縄戦の何よりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていることにあり、その数は10数万におよびました。ある者は砲弾で吹き飛ばされ、ある者は追い詰められて自ら命を絶たされ、ある者は飢えとマラリアで倒れ、また、敗走する自国軍隊の犠牲にされる者もありました。
私たち沖縄県民は、想像を絶する極限状態の中で戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。この戦争の体験こそ、とりもなおさず戦後沖縄の人々が、米国の軍事支配の重圧に抗しつつ、つちかってきた沖縄のこころの原点であります。
沖縄のこころとは、人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する心であります。
私たちは、戦争の犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人びとに私たちのこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、ここに県民個々の戦争体験を結集して、沖縄県平和祈念資料館を設立いたします。」と沖縄戦の実相と平和へ向けた決意が述べられています。
沖縄戦では、戦闘終結後、米軍が生き残った住民全てを収容所に送り込んだために、おびただしい戦没者遺体は野ざらしにされていましたが、糸満市に米軍から移住を命じられ、後(のち)に本市と合併する旧真和志村の住民が遺骨収集を始め、「魂魄の塔」を建立したのが最初の慰霊碑です。
私が、10年間、秘書を務めた瀬長亀次郎衆院議員は、1971年、12月4日の「沖縄及び北方問題に関する特別委員会で、自ら参加した遺骨収集の生々しい状況や米軍占領下での体験を述べて、「沖繩の大地、われわれの同胞の血を吸ったこの大地は、そうして遺骨は、土と化しておる。母なる大地は何を求めておるか。涙ではない。再び沖繩を戦場にするな、平和な島を取り返す、沖繩の島を平和の島に返せという、この祖国復帰の原点はそこにある。」「この沖繩の大地は再び戦場となることを拒否する、基地となることを拒否する」と”沖縄のこころ”で当時の佐藤栄作首相を圧倒する気迫のこもった質問を行っています。
質問後、佐藤首相の求めに応じ、自らの著書「民族の悲劇」と「民族の怒り」にサインし手渡しています。
橋本龍太郎氏や小渕恵三氏など、自民党の歴代首相にも遺骨収集活動に参加していた方がいました。菅首相もそのことを学び、戦没者に寄り添うべきではないでしょうか。戦争体験の継承は、とても重要な課題です。
糸満市摩文仁にある「平和の礎」には、敵味方関係なく24万1593人の戦没者が刻銘され、その内2万9541人が沖縄戦を含む第2次世界大戦で犠牲となった那覇市関係者です。肉親や親族、同僚を失った悲しみと思いは、年月が経っても癒えることはありません。
県内では、糸満市や八重瀬町など各地で、戦後76年をへた今なお、戦没者の遺骨が発見され、遺族のもとに送り届ける活動が続けられています。
沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の具志堅隆松代表は、「遺骨は石灰岩や土の色と同化している。見た目ではほとんど分からず、手で持った重さでようやく判別できる。戦没者の血や骨粉を含んだ南部の土砂を遺骨とともに米軍基地の建設の埋め立てに使うのは、戦没者を冒涜し、県内のみならず、国内外にもいる遺族の心を傷つける人道上の問題だ。」と戦没者の無念を思いやり、厳しい批判の声を上げています。
県民は、「県民投票」で7割以上が辺野古米軍基地建設のための埋立てに反対との意思を示しています。凄惨な沖縄戦の激戦地から戦没者の血と遺骨が混ざった可能性の高い土砂を埋立てに使うことは、県民の心情への寄り添いも、配慮もなく、戦没者と遺族、市民と県民を冒涜するものです。人道上、倫理上からも、平和を希求する”沖縄のこころ”からも、断じて許すことはできません。
このことは、保革をこえた全ての那覇市民、沖縄県民の強い思いではないでしょうか。
政府は、激戦地での米軍基地建設埋立てのための土砂採取計画をきっぱり断念すべきです。
「戦没者の遺骨収集の推進に関する法律」では、「国は、戦没者の遺骨収集の推進に関する施策を総合的に策定し、及び確実に実施する責務を有する。」と規定しています。今年の2月には南洋諸島タラワで戦死した戦没者の遺骨がDNA鑑定で遺族が判明し、長崎県の90歳の兄に78年ぶりに返還されています。
3月には、硫黄島での戦没者の遺骨が新潟県の79歳の息子に76年ぶりに返還されています。遺族が、遺骨を墓に納めず、しばらくそばに置いて一緒にすごすとのニュースを見て、目頭が熱くなったのは私だけではないと思います。糸満市や八重瀬町など、沖縄の大地に、いまも眠る戦没者の遺骨も、早く親兄弟のもとに返還してほしいと声なき声で叫んでいます。
政府は、戦没者の無念と遺族の心情に寄り添い、遺骨収集と返還に責任をもって全力を挙げるべきです。
よって、日本共産党市議団は、那覇市議会として、「沖縄全戦没者追悼式」が執り行われる6月23日の「慰霊の日」の前に、戦没者、遺族、市民、県民の心情に寄り添い、今回提案されています、意見書案第6号 「沖縄戦の戦没者の遺骨等を含む可能性のある土砂を埋め立てに使用しないよう求める意見書」について賛成するものです。日本軍国主義による沖縄戦、侵略戦争、植民地支配の犠牲となった人々に深い哀悼の意を表し、賛成討論と致します。 議員各位のご賛同をよろしくお願い致します。
以上。